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日本語ものがたり(第11回)

日本語ものがたり(第11回)


「先生、ジュテーム は日本語でどう言いますか」

モントリオール大学東アジア研究所 金谷武洋

 日本語を教えていて必ず一度は聞かれるのが表題の「Je t'aime(=I love you) は日本語でどう言いますか」ではないだろうか。皆さんならどう答えるだろう。「あのね。日本人はそんなことは言わないの」と文化的説明で逃げる手もあるが、学生は納得しないだろう。今回はこの答を考えて、そこから日本語における「人称代名詞」の問題点と繋げてみようと思う。一般に「人称代名詞」と言われるものは、実は英仏語などと日本語では驚くほど様子が違っている。私は<I love you>や <Je t'aime>に当る日本文は(じっと目を見て言う)「好き(だ)よ」が一番自然であると思う。いちいち「僕(私)は君(あなた)が好き(だ)よ」と言う必要はまるでない。「好き(だ)よ」と言われて「誰が?誰を?」聞く様なおツムなら、こう言ってもらえる可能性はあまりない。ましてや「私はあなたを愛しています」なんてのは極めつけの悪文であって、「お前はロボットか翻訳機械か」と言いたくなる。その理由は簡単。日本語の「基本文」には、国語の時間には(学校文法で)そう教えられるが、実は、「主語」や「目的語」が不要であるからだ。

 <Did you see Mary?>や<Avez-vous vu Marie?>に対する答えの最小文はそれぞれ<Yes, I did>, <Oui, je l'ai vue>と代名詞が英仏語では必要不可欠である。それに対して、日本語は「真里を見ましたか」では主語が、「はい、見ました」では主語も目的語もなく、それでいてちゃんと「座りのいい」文になっているではないか。だから、先月号にも書いた様に、日本語教室のテストにおける和訳設問などでは、その点を先回りして<Did (you) see Mary?>, <Avez-(vous) vu Marie?>, <Yes, (I) did><Oui, (je l')ai vue>などと人称代名詞を括弧に入れ「これらは訳すべからず」と明記した方が学生はずっと自然な文を書くようになる。こういう練習を積み重ねれば、教師も「あなた」と学生に呼ばれなくても済むわけだ。日本語に人称代名詞が発達しなかったのは、何よりも「基本文」の構造の違いのせいなのである。

 人称代名詞と言ったが、日本語では実は「人称名詞・人称詞」であって、その為に数も場面に応じて使い分けられる。だから自然と数が多くなる。例えば俗に「一人称単数の人称代名詞」と言われるものを考えると、平均的なサラリーマンであれば、会社の上司に対しては「私」、後輩や妻に対しては「僕」や「俺」、子供に対しては「パパ」や「お父さん」などだろうか。最後の二つでは明らかに名詞となっている。さらに方言では変わるだろうし、時代を遡っても変化している。これら全ての場面に<I>とか<Je>で通せ、語源的にも唯一つの<*ek>に収斂してしまう英仏語とは大変な違いがある。また、英仏語の人称代名詞は名詞の様な自立語的性格が弱いから、例えば「美しい日本の私」という川端のノーベル文学賞受賞記念講演のタイトル中の「私」がそのまま<I>では訳しにくい。大江の「あいまいな日本の私」でも同じことである。(前者は、サイデンステッカーによる翻訳では「美しい日本と私」となっていた)

 伊丹十三という映画監督がいる。いや、最近変死を遂げたから「いた」と言うべきか。この人は俳優でもあり、料理の本も出すというマルチ・タレントだったが、実は小説の翻訳もやっていて、日本語という点からはそちらの活動の方がむしろ興味深い。なお、以下に述べるのは沼野充義の「屋根の上のバイリンガル」(筑摩書房、1988)という実に面白い本からの孫引きである。1979年に出た「パパ・ユーアクレイジー」(ブロンズ新社)という訳書はW.サローヤンの小説(原文英語)だが、伊丹はあとがきの中でこう述べているらしい。「(・・・)私はこの小説を翻訳するに当って、一つのルールを課すことにした。すなわち、原文の人称代名詞を可能な限り省略しない、というのがそれである」

 自分にルールを課すのは伊丹の勝手だが、その結果は言うまでもなく惨憺たるものである。「ママは車で送ってくれると言ったがパパは断わった」と言えばいいところを、彼の翻訳では「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断わった」としていると言うのだから。これが「人称代名詞が日本語では省略される」という間違った神話によるものであることは言うまでもない。伊丹も言及している「省略」という概念そのものが、英語中心の視点に発したものである。「省略」ならばこそ「省略しない選択」も出て来よう。しかし事情は違うのだ。日本語の基本文において、人称代名詞は始めから不要なのである。「主語」がなくては文にならない英(仏)語であるから、人称代名詞が無くては困るのだが、それは日本語には全く関係のないことなのだ。この点を沼野も力説しているが、全く同意せざるを得ない。

 もっとも、上の伊丹の文「僕の父は...」がバタ臭いのは人称代名詞の変形であるいわゆる「所有代名詞」の多用にもよっている。例えば<I>に対する<my>である。これらも日本語においては極めて陰のうすいものだ。この件で今でもありありと思い出すことがある。まだケベックに来て間もなかった頃だが、大学の寮の部屋に遊びに来ていた友達が「トノブー!!」と突然叫んだのである。「とのぶ?!」何やら日本語にも似た響きのこの一言が、何を意味するのか、とっさにはまるで理解出来なかった。今なら分かる。友人は「お湯が沸いてるよ」の意味で<Ton eau bout!>と教えてくれたのである。コーヒーを入れようとポットを電源に繋いでおいたのだった。ここは「お前の沸かそうとした湯が沸騰しているよ」<Your water is boiling>というニュアンスだろうが、日本語なら、同じ場面で明らかに「お前の」は不要だ。太郎が木に登って、落ちそうになったので、下の次郎に「おい、尻を押さえろ」と叫んだが、押さえてくれないので、ドサッと落ちた。「何で押さえないんだ!」とどなったら、次郎は一生懸命、自分のお尻を押さえていた、という冗談も日本語(だけではない)だからであろう。英語やフランス語なら、太郎は木から落ちなくて済むだろうから、言葉の違いで怪我をすることだってあるのだ。

 この様に日本語の基本文には「主語」や「目的語」が不要である。ところがこのことを理解するのに抵抗がある人もいる。それは日本の学校で習った「文は主語と述語から出来ている」という固定概念が抜けないからである。「教育とは洗脳でもある」ことの一例だろう。そういう人は、たとえお菓子を戴いて自分が「おいしいですね」と言うことがあっても、それは文としては完全ではなく、「このお菓子は(又は「これは」)おいしいですね」の「主語」が省略されたものと考える。しかし、その根拠が「英語や仏語ではここに代名詞が使われるのだから、日本語でもそうあるべきだ」と言うのだったら、それは極めて「英語セントリック」な考えだ。これはEgocentric(自己中心的)の洒落。角田太作という勇気ある言語学者が「英語は地球上の典型的、標準的な言葉ではない。(助動詞doの多用など)かなり英語は特殊だから、この言語を基準にしてはいけない」と主張している。(「世界の言語と日本語」くろしお出版、1991)

 例えば英語(や仏語)には「関係代名詞」と呼ばれるものがある。英語においては「指示代名詞」「人称代名詞」と並んで重要なもので< the book WHICH you bought >や< the man WHO is crying >に現われる、ここで大文字で書いたWHICHやWHOなどがそうだ。これに当たる日本語の言葉は何だろうか。「英語セントリスト」なら「英語にあって日本語にないのはおかしいから」と考えて「買ったところの本」「泣いているところの男」などと無理に「ところ」を入れるか、あるいはその「ところ」を「日本語は省略出来る」と考えるだろう。言うまでもなく、こんな単語は日本語には必要なく「買った本」「泣いている男」で十分だ。「日本語には関係代名詞はない」と言うのが最も「日本語に即した文法」なのである。「主語」だって同じことで「英語にはあっても日本語には主語はない」と言ってちっとも構わないのだ。

 さらに、日本語の構文に「主語」が要らないことは次のことからも分かる。よく料理の本などに出てくる「秋刀魚を三枚におろします」には、省略されている筈の「主語」が見つからない。もし「私たちは」などと考えるなら「他の人達はそうしませんが」という意味が加わって違う文になってしまう。「どうして来なかったんですか」という文でも、主語と見られる「あなたが」をつけると「他の人が来た」という意味が加わってしまう。意味が変わるとしたら、もはやこれらは「省略」ではないことは明らかだろう。その他「黒板に『明日は休み』と書いてあった」や「いい陽気になりましたね」などにも「主語」はない。

 これとは逆に英語などでは「主語がないと文にならない」という辛い事情があるから、意味のない言葉まで使って主語を表わさなくてはいけない。これが「仮主語」とか「非人称主語」とか言われるもので<IT is hot>とか<IT rains>などに出てくる<IT>である。日本語では形容詞文で「暑い(ですね)」「寒い(よ)」などと言えば十分なところである。さて、これまで「日本語の代名詞は英語などと随分違う」と述べてきた。ちょっとまとめると、日本語の人称代名詞は実は「人称名詞」であること。英語の様に義務的に使われないこと。それは基本文に主語や目的語が要らないからであること、の3点となる。

 例えば友達の家で、クッキーを勧められたとしよう。食べてみるとお世辞抜きでなかなかおいしい。お友達はこっちの反応を待っている様子だ。さて、あなたはどう言うだろうか。相手を喜ばせたい気持ちもあって、先ず「Hum! Wow! 」などと大げさに驚き、お友達が英語話者なら<This is good!>か<I like it !>、ケベッコワ(ーズ)なら<C'est bon!> か<J'aime donc ca!>、そして日本人なら「おいしい!」などがまあ普通の褒め言葉ではないだろうか。さて、これらの文をじっと見比べて戴きたい。ここに既に日本語と英仏語の代名詞の大きな違いがはっきり出ているからだ。それは、日本語の代名詞は「無くてもいい」のに対して、英仏語では「無いと困る」という違いである。確かにここに出てくる英語の<This, I, it>も、仏語の<C'(=Ce), J'(=Je)>も、全て代名詞で、「それらが無くては文として成立しない」要素である。一方、日本語では大いに様子が違っていて「おいしい!」だけで文となっている。(「おいしい」は形容詞一語で文でない、と言うのは大間違い。文であるからこそ、過去形にして「おいしかった!」と言えるし、否定文だって「おいしくない」「おいしくなかった」などと作れるのである)

 英仏語など西洋語と日本語における基本構文の決定的な違いに目をつぶり、あたかも日本語の主語(そして形容詞や人称代名詞)は英語などのそれと同じもの、と扱ってきたのがこれまでの国語文法の悲劇であった。学校文法も一代目の大槻文法(1897年)、二代目の橋本文法(1935年)と受け継がれて来て延々100年である。黒船ショックに発した明治政府の脱亜入欧を反映した日本政府(文部省)の英語中心主義は完全に時代遅れのものである。前回も引用した三上章(1903ー1971)の勇気に習おう。日本語文法の主語は、始めから「ない」のに、「いや、ある」あるいは「あるが、(省略されて)見えない」と言っているのだから「裸の王様」だ。日本語に即した、第二英文法ではない学校文法の誕生が、21世紀を目前に控えた今ほど求められている時はない。(2000年6月)

 

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